「ひとり会議」

主に「人と組織に」に関すること

ライフスピーチ

今年の12月3日で36歳になるので、自分の根源がどこにあるのかを自分でしかめようと思い、回顧してみることにしました。

 

緑と水、宇宙が育ててくれた幼少期

f:id:monchi-kazuaki:20200920001608p:plain

生まれた町

幼少期は、美味しい水と米をよく食べて、緑と山、川を走り回り、ずっと外で遊んでいた子供だったようです。

じいちゃんは3歳の頃に亡くなったのですが、じいちゃん子だったようでよく話を聞いてました。ほぼ戦争の話だったかなと思うのですが「人に迷惑をかけちゃいけない」「人を助ける」という言葉だけが、縁側で話をしてくれるじいちゃんの顔と一緒に、不思議と覚えています。

 

 

バスケットの出会いが”挑戦”を。学校というシステムから”あるべき”を、学ぶ。

 

小学生になっても変わらず、小学校の裏には古墳のある山があったので、放課後もそこでよく遊んでいました。

初めてチームスポーツを体験したのはこの頃で、実は野球。薄っすらと覚えているのは、西武が地方遠征で(当時の)宮城球場に来てた試合を芝生の外野スタンドで見てた記憶です。やりたいと思ったかどうかは定かではないですが、野球を始めます。(朝早かったなー、7時試合開始とか、なぜかその時間から試合があった)

f:id:monchi-kazuaki:20200922172130p:plain

その後生涯通しハマる、バスケに出会う。小学5年の時、スラムダンクを見て、親友の家の庭にあったバスケットゴールに夢中でシュートしていた記憶があります。それまで何もやったことないので、親友に教わりながら、その後、中3までそこでよくバスケをしてました。

ずっと1 on 1 か シュート練習でしたが、初めて勝った時の興奮は言葉に代えがたい胸の熱さでもあり、「スラムダンクで沢北が初めて父親に勝った」気持ちがわかった瞬間でもありました。

 

その頃に、

・挑戦こそ人生(心が燃える)

・難しいほど超えた時の爽快感がある(達成感ではない、山に登り太陽の光が強く当たり、風が吹き抜ける気持ちよさ)

・自らの努力で突破する 

という自分の源の形が出来上がっていきました。

 

一方で勉強は、育った町が「明日の宇宙を拓くまち」のスローガンの町(宮城県角田市)だったので、それもあってか、宇宙とか星、科学が好きでした。

f:id:monchi-kazuaki:20200922172216p:plain

夜に土手で星を眺める のは本当に日課で、実家から徒歩1分の土手からみた”春夏秋冬の星空”は覚えています。(秒速5センチメートルの映画の種子島から主人公が空を見上げるシーンと、普通にカブります)よく”写ルンです”で昼でも夜でも写真を撮ってました。 

 

f:id:monchi-kazuaki:20200922172150p:plain

興味は、科学から数学(論理)やパソコンに興味が派生していきます。まーしかし、数学教師が「先生は絶対!」王様ゲームで王様になったタイプだったので、先生が嫌いで、それらの嫌悪感が後押しし、学校といシステムの不条理、先生と生徒という構造的に対等になれない関係に、よく噛み付く面倒な生徒でした(でも、学級委員でしたがw)

 

「ハックすることの面白さ」に気付く!

f:id:monchi-kazuaki:20200922172122p:plain

高校は、中学時に”Windows98”に出会い「この箱はなんだ!」というインパクトが忘れられず、先生に相談したら、その当時”2億円のサーバー”を宮城県内で使える高校が2つあることを教えてもらい、近い方の高校の情報システム科に入りました。

 

もちろんバスケ部に入部、バスケをハックする。

田舎すぎで中学校まで部活にバスケ部がなかったので、ワクワクしながら入部。体力の限界突破をし続けた1年生でした。(毎日チャリで山越えを本当にしていた。)

そして、1年後に全国クラスのコーチが入ってきて、厳しすぎて経験者の同期は全員辞めて、バスケの部活歴1年で高校バスケ部の部長(キャプテン)になる。全員で5人・・・バスケはコートに立てるのは5人。

当時流行っていた走り勝つ「ランガン」のバスケは、僕らには合わないので、当時NBAから取り入れた高校女子バスケや大学バスケで流行り始めていた、日本では馴染みのないモーションオフェンスと取り入れて体力を使わない早いバスケを始めていきます。

それをドリブルではなくパスでやる難易度が高いバスケをしていました。バスケ知らない人向けに書くと、バスケはオフェンスの1ターンが、大体20秒がなのですが、パスモーションは最短5秒で攻めきる!とにかく速く展開する身長や筋力差を必要としないもの。

それでチームビジョンは、「感動させるバスケ」でした。

観客が湧くバスケができたのは、2年生の秋の新人戦。他校の父兄に「感動した」と言われた試合。負けた試合だったが、3Qで1人ファールアウト(退場)して、4人になってから20点差を4点差に縮めた試合は、地域のバスケ界隈では軽くニュースになった。

まぁ、コーチに試合後に言われたのは「最初からやれるならやれよ」でしたね。その時のコーチは、現在国立大のバスケ部のヘッドコーチです。すげー人に学んでいたんだなとありがたく思う。

f:id:monchi-kazuaki:20200922172429p:plain

コーチの名言

・俺に言われたことやるんじゃなくて、自分らから自主的に動け

・感動は、みんなの頭ん中より以上のことが起こった時。弱いチームが強い奴らをやっつける。お前らは、ここから下はない。

・お前達は若い。これは年齢の話ではなく、精神的な話。チャンスと思ったらいけ!お前らはチャレンジャー。若さは、常に挑戦する精神。

 

 

大学生|平均睡眠4時間の4年間

自分で学費、家賃を。それ以外の生活費は親に出してもらう生活だった。

基本的には真面目で4年生まで週5で学校にいて、ほぼ週4−5でバイト。3年生まで体育会のバスケ。教授の手伝いでティーチングアシスタント。合コン100回/年とかマジで友達にいつ空いている?と聞かれたときに、手帳の空きが1コマみたいな生活してました。

・バイト先のイタリアンレストランのポポラマーマでは、Aさんという元帝国ホテルの料理長だった人に出会い。バシバシにしごかれましたが、終いにはメニューとかつくっていた、最後同じバイトのシフト調整とか評価とかしてた。

・誰かの定義ではFランクと呼ばれる大学だが、TA(Teaching Assistant)として学生が教授のサポートができる制度があって、超優秀な教授近くで勉強もできたし、稼げた。

・大学で成績は4位になった。が3位までしか学費免除がなかった。。。

・フランス留学もした。学校にネイティブの先生が常に居て、NOVAに自費で通った。

・合コン(飲む以外の交流ランチやお茶会も含め)100回/年、大学生活4年で400回は超えた

・恋もした(人生最大級①※3回ありますw)

・よく死に急いでいるよなと言われていた

 

「多くの大学生が消費していた時間の使い方」をハックした4年間でしたw

 

社会人キャリア|自分がやってきたことを自分で否定をしてきたキャリア

 

1社目は、思ったことは全部できそうな環境がよかったので、一番整ってない内定先を選んだ。結果的には、多少自分の身体や精神を蝕むことはあったが、社会人3年目としては経験できない幅と量(笑)を実体験できた。

人材紹介と派遣事業をしていて、情報の非対称性を仲介の優秀な善意で解決していたが、社会全体へのインパクトはあまりなかった。

 

2社目は、伸びてる業界×伸びている会社×経営者がハックしている会社がよくって、不動産ベンチャーに入る。結果的には、「IPOまで会社を引き上げる人事の経験」「あと○ヶ月で資金ショートします」「インハウスで人材紹介会社を立ち上げる」「俺がダメだったら外してください!それまでは全力でやりますの責任者の経験」「経営者向けのアウトバウンドマーケティング組織の立ち上げ」「全国の不動会社に飛び込み・・・少し命の危機を感じたり」みたいな経験ができた。採用が結果的には長かったのでどれだけの(応募)量を集めるかを突き詰めることが一番やったことだった。

 

3社目は、現職。

とあるきっかけで出会いました。当時その子会社が持っていた壮大なビジョンに惹かれて、入社。複数のHRを丸3年担当し、現在総務1年目。

 

----

 

と過去から現在まで回顧してきました。

 

これから残りの人生をどう生きたいのかを考えると1つの方向性が見えてきた。 
「人の可能性を閉じる不(負)を解決することで、未来の社会に貢献したい」
と強く思っている。

 

-- 

・人材紹介・派遣会社では、主に目の前の働く人の不(負)を解消していたが、自分や近い人が手の届く範囲で、短期的にしか出来なかった。

・不動産会社では、不動産売買の構造的なにメスをいれてシステム的に解決していった。現在も強い影響力を業界の中で放ち続けている。

・人の可能性を解き放つために、思いや考え方を変化させるのは出来上がったモノ(例えば会社組織)の中では、時間がかかった

・働くも含めた生活環境の”システム”にメスを入れないと大局は変わらない

--

 

今、継続的に社会を良くするシステムや環境づくり、文化づくりに強く興味を持っているのは事実。

 

これからどのようなキャリアの選択の仕方をするかは、まだ決めていないですが、働く方法はいくらでも形はあるので、ゆるく広げながら自分の生き方を決めて行きたいと思う。

 

誰のためにか?、”自分の子供の世代が生きる世界で生きる人”のためだ。

子育てをしている中で、心の底から本音で思い始めたことだ。

f:id:monchi-kazuaki:20200922172156p:plain

 

追伸

・辞める(たい)話ではないです(爆)